野村沙知代さんが死去 プロ野球の元監督・野村克也氏の妻

野村沙知代さんが死去 プロ野球の元監督・野村克也氏の妻

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匿名さん

可愛かずみさんをイジメて自殺させた!
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匿名さん

福島県の恥さらし!
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39

匿名さん

人に歴史あり
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匿名さん

>>37
まさに欲しいものはカずくで奪い取ってきた沙知代の人生哲学を象徴するような結婚である。もっとも、こうした沙知代の生き方は、至る所でトラブルを引き起こしているのも事実。犯罪スレスレのトラブルを起こしたことも一度や二度ではないのだ。

「浅香が暴露しているように、『この指輸いいわね。ちょっといい?』と持っていったまま品物を返さないという”寸借詐欺”の常習者で、被害者は数え切れないほどいますよ。しかも本人はまったく悪いとは思っておらず、『返してくれ』なんて言おうものなら『ケチ』『貧乏人』とクソミソにケナされるんだからたまりませんよ」(芸能プロ社員)

それだけではない。沙知代は塩月弥栄子の秘書時代には、その立場を利用し、塩月の著書の印税を自分の口座に振り替えさせ、塩月のサインで絵画や骨量品を買い漁るという手ロで、1億円を超える横領までした疑惑もあるのだ。しかも、沙知代は最後まで知らぬ存ぜぬで通し、1円たりとも返さなかったというのだからとてもマトモな神経の持ち主とは思えない。
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37

匿名さん

>>30
ほどなく野村と暮らしはじめた沙知代は、73年に克則を出産するのだが、この時、野村には妻と子供がおり、一方の沙知代も、別居してはいたもののエンゲルとの離婚は成立しておらず、いわゆるダブル不倫の状態だった。

ところが沙知代はそんなことにはお構い無し。夫のエンゲルとの離婚が成立すると、名前を「芳枝」から「沙知代」ヘと改名し、野村の妻の座におさまろうとしたのである。

「沙知代は野村の前の奥さんに何度も電話をかけて嫌がらせをしてたようですね。『克也は絶対帰らせません』なんて宣戦布告までしたようです。後にこの前妻が亡くなった際も、野村が葬式に参列することを許さなかったほどですからね」(スポーツ紙記者)

しかも、沙知代の存在が南海球団内部で問題になり、「女を取るか野球を取るか」と迫られた野村は、沙知代を選んで南海を追放されてしまうのだが、沙知代は一向に悪びれず、逆に記者会見を開き「球団の陰謀だ」と反撃に出ているのだ。

ともかく、この一件により球団を追われはしたものの、野村は前妻との離婚が成立。沙知代はようやく妻の座を手に入れるのである。
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匿名さん

長文ありがとー! 読んだよ!
野村さんって、そんな人だったんだね!
不倫の末、野村監督と結婚したんだよね?確か...?
違ったかな?

野村さんなかなかの悪女だね
地獄行きかな(笑)
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匿名さん

要約すれば、米兵相手に売春していた女が英会話をものにして人脈をつくりしぶとく生き残ったという話し。
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匿名さん

>>33
俺はなかなか面白かった
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33

匿名さん

>>32
わかったから上げなくていいよ
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32

匿名さん

長文連レス読んでない
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匿名さん

野村沙知代の悪行については、ケニー野村(ダン野村の弟)が書いた『グッバイ・マミー』が詳しい。
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匿名さん

>>29
そして、沙知代は米兵を相手に鍛えた英語カと持ち前の度胸で、あるトンデモない大物財界人と関係を持つことに成功するのだ。

あの国際興業の経営者で希代の政商と呼ばれた故小佐野賢治である。

当時、小佐野が経営する国際興業と沙知代のディーアンドケイが、あるポウリング用品の代理店契約をめぐって争うことになったのだが、本来の会社の規模でいえば勝負にならないところを、沙知代は小佐野に直談判し、とうとう契約を奪い取ってしまったという。

この一件で沙知代を気に入った小佐野は、沙知代の会社に当時としては超高級品であるクーラーをプレゼントするほど惚れ込んだという。さらに、沙知代と小佐野は愛人関係だったとの説まである。

沙知代が頭と身体を便って築いた財界人脈は小佐野だけではない。実はもうひとり、別の大物財界人も沙知代と親密な関係にあったといわれているのだ。

「沙知代は裏千家十回世家元・淡々斎宗室の長女で評論家の塩月弥栄子の秘書として働いてたことがあるんだが、実は、塩月に沙知代を紹介したのがある財界人だといわれてるんだ。

その人物とは、あの堤清二。沙知代は堤に詩集をプレゼントするなど、かなり親しい間柄だったようだ」(経済誌記者)なるほど、確かにこの頃の沙知代にはある種の女としての魅力が備わっていたのだろうが、それにしても、金も学歴も持たない文字通り裸一貫から始めて、これほどの大物を籠絡するのだから、沙知代の手繰手管は見事としか言いようがない。

こうして政・財界に食い込んでいった沙知代は、ついに、当時、プロ野球界のスター選手だった野村克也と出会うことになる。
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29

匿名さん

>>28
一向に落ち着かない沙知代に業を煮やしたのかどうかは分からないが、エンゲルは64年に店を売り払い、沙知代とアメリカに渡るのだが、わずか4力月で帰国。すぐさま株式会社ディーアンドケイを設立し、エンゲルのコネでボウリング用品の輸入を始めるのだ。

ところが沙知代は事業に関してはまったくのシロウトである。実家の金まで持ち出したのだがディーアンドケイの業績は見る見る悪化していったという。しかも、沙知代はそんな会社を横目に相変わらず男漁りに走っていたというのだ。それも今度の相手は米兵ではなく、仕事先で出会う日本人実業家である。いかに沙知代とはいえ、にわかには信じられない話ではあるが、この会社の元社員はこう証言するのだ。

「野村(沙知代)さんは、仕事で知り合った相手、それも大物の政・財界人ばかりを狙ってアプローチしてましたね。英語はペラペラでしたから、コロンビア大卒業の経歴も通じたようで結構武器になってましたよ。それに、親しくなると女を前面に出して強引に迫ることが多かったようですね」

しかも、もともと夫のコネで始めた会社であるにもかかわらず、沙知代は夫のエンゲルと別居し、ひとりで会社を経営し始めたのだ。沙知代は強烈な上昇志向で次々と人脈を広げていったのである。

「自分のメリットになるような地位や権力を持つ相手を見抜く目はありましたね。実際、目をつけた男には、よくモテていたようです」(前出・元社員)
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28

匿名さん

>>27
沙知代の最初の結婚相手、米軍将校アルビン・ジョージ・エンゲルも、実はこの仕事中に新橋のホテルで知り合った客だったというのだ。

「当時、GIと付き含ってるパンパンはたくさんいたけど、結婚までする女は希だったと思うよ」(伊東信義)

もっとも、沙知代にしてみればその日暮らしの生活から自分を別世界に引き上げてくれる絶好のチャンスである。エンゲルと沙知代は57年に入籍。この年に長男のダン(現在、大リーグのスカウトマンとして知られる団野村)が生まれ、59年には次男ケニーが生まれている。

ところが、である。家族に囲まれ、さぞかし幸せな生活だったと思いきや、何と沙知代は結婚後も米兵と遊ぴ、男の家を泊まり歩いていたというのだ。
「実家の土地を売った金で『麻布十番』って名前の喫茶店兼スナックを始めたんだけど、芳枝は店も子供も放ったらかしで、別の男の家に入り浸ってたからね。子供はよく自河の実家に預けてたから、俺がダンやケニーの面倒を見てやってたんだ。エンゲルさんはかわいそうだったね」(伊東信義)
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27

匿名さん

>>26
「ホテルの通用口から出てきた芳枝を見て驚きましたよ。久しぶりに会ったら、
派手な洋服を着てすっかりアカ抜けてたし、あの時代に化粧にマニキュアまでしてた。
しかもいつの間にか英語まで話せるようになってたんだからね」

沙知代は第一ホテルの厨房で皿洗いの仕事をやっていると語り、
信義たちのリュックにチョコレートやコーラを詰め込んでくれたという。
当時の日本人にとってはめったに手に入らない食べ物ばかりである。

こうして沙知代から手紙が届くと、上京して会いに行くというパターンが何度も繰り返されたのだが、
時には沙知代がGIに肩を抱かれて通りを歩いている姿を見ることもあったという。

いったい、家出娘だった沙知代はこの街で、何をして暮らしていたのか。
実は、この空白となっている東京での生活こそ、まさに野村沙知代が自分の過去から消し去ろうとしていた時代なのである。
沙知代の実弟は、本誌の質問にはっきりこう答えてくれた。

「芳枝がやってたのは、当時『バンパン』って呼ばれてた職業だ。
皿洗いのアルバイトをしながら、ホテルの回りにいる米兵相手に商売してたんだ」

野村沙知代は、まさに体ひとつで戦後の東京を生き抜いてきたというのだ。
しかも、この生活は5年近くも続いたというのである。
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26

匿名さん

>>17
野村沙知代のもともとの名前は『伊東芳枝』。32年、現在の福島県自河市に生まれ、
一年後に東京都荒川区に転居。父親は都バスの運転手をしていたという。
現在の小学校にあたる第二瑞光国民学校を卒業後、再び福島県に戻り白河市の電電公社に交換手として就職。
ところがこの勤めは長くは続かず、20歳を待たずして家出してしまう--。

家出後の沙知代はまったくの音信不通になってしまうのだが、
数年後、ようやく手紙が来て家族と連絡がついたという。

「芳枝からの手紙には東京に遊ぴに来いと書いてあったんで、私と二番目の姉が上京したんです。
芳枝が指定した場所は新橋にある第ーホテルでした」

こう話すのはその沙知代の実弟、伊東信義である。当時、東京の主要ホテルはほとんどがGHQ(連合軍総司令部)に接収され、
米軍の将校たちの宿舎となっていた。第一ホテルも同様で、ホテル周辺にはGIたちが歩き回り、
外国人相手に商売をする日本人たちであふれていたという。
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25

匿名さん

>>23
お前が頑張れブスババア
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匿名さん

しんで良かったー
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23

匿名さん

サッチー
頑張ったね
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奥ゆかしさ
淑やかさ
清楚

これらの言葉が最も似合わぬ下世話で強欲なだけのババアだったという印象しかない。
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