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生島 治郎いくしま じろう
経歴・人物 編集
上海生まれ。1945年2月に長崎に引き揚げ、5月に母の郷里金沢に移る[1]。そのため、被爆を免れた。その後、父が横浜で職を持ったため横浜に転居した[1]。
転居に伴い神奈川県立横浜第二中学校3年に編入。学制改革により翌年(1948年)には神奈川県立横浜第二高等学校へと改組された同校で4年間学ぶ。同期に青木雨彦と宮原昭夫がいた。宮原は肺を患って大幅に留年を余儀なくされたが、一時は机を並べたこともあったという[2]。高校時代から小説を書き始め、初めて書いた小説は魯迅の「阿Q正伝」を真似た「小市民香(シャン)」という小説だった[3]。
1951年、早稲田大学第一文学部英文学科入学。同級に小林信彦や河野基比古がいた。在学中は仏文学科に入学した青木雨彦とともに「早稲田大学現代文学会」に所属。会員に高井有一や富島健夫がいた。その傍ら、父の上海時代の知人が横浜港でシップチャンドラーを営んでおり、臨時社員という名目で入社、荷役作業も経験した[4]。この時の経験がのちにシップチャンドラーを主人公とする『傷痕の街』や港湾事業の利権がからむ『追いつめる』の創作に活きることとなる。
1955年卒業。卒論のテーマはジョナサン・スウィフト。当時は「なべ底不況」真っ只中で、空前の就職難に苦しみ、どうにか知り合いの美術評論家・植村鷹千代が主宰するデザイン事務所に就職。1年後、ここで知り合った画家・勝呂忠から早川書房が編集部員を募集していることを知り、デザイン事務所を辞めて応募。面接を担当したのは、当時、早川書房の編集部長だった田村隆一で、最終選考に残った2人の内、生島を選んだのはもう1人が地方出身者だったのに対し、生島が横浜在住で自宅からの通勤が可能なため、安月給でも生活できるだろうと踏んだからだという[5]。ちなみに初任給は8000円だった[6]。
入社後は初代編集長田中潤司の下で江戸川乱歩監修による日本語版『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』の創刊準備に携わる。しかし、田中は創刊号が刊行される前に辞職。「当時ぼくは、要するにミステリー好きだというだけで、とにかく、まあ、全く手さぐりなわけだよ。だからいちばん弱りきっていたのは、おれだと思うんだ、実際には」。この窮地に田村隆一は急遽、都筑道夫を電報で呼び出し「なんでもいいから、うんといえ」と強引に後釜に据えたという[7]。日本語版『エラリイ・クイーンズ・ミステリ・マガジン』は、そうした混乱の中、1956年6月に創刊となった。
1957年、田村の下訳でロアルド・ダールの日本語初訳となる『あなたに似た人』を手がける。稿料は1枚100円で、2人で50円ずつ分けたという[8]。その後も常盤新平とともに開高健訳『キス・キス』の下訳を行うなど、早川書房の俸給の安さもあって翻訳の内職に活路を見出す生活だった。
26歳のとき、都筑の退社に伴って『エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン』の編集長に就任。約7年間の在社を経て、1963年、小説執筆を目的に早川書房を退社し、半年を費やして『傷痕の街』を完成。この作品が1964年3月、佐野洋の口利きにより講談社から刊行され、作家としてデビューした。なお、生島治郎というペンネームは結城昌治の命名。三好徹によれば「本名のローマ字のアナグラムに由来している」という[9]。
1967年、『追いつめる』で第57回直木賞受賞。「受賞のことば」[10]では「心はずみ、嬉しいのは勿論だが、日が経つにつれ小説を書く上での心構えが自分なりに見えてきたように思う。この心構えは将来、形を変えるだろうけれど、今は今なりに納得出来て、これは賞をいただく前にはなかったものだ」と作家としての初心を語っていた。
最初の妻小泉喜美子(旧姓杉山)とは26歳のときに結婚した。13年の結婚生活を経て1972年に離婚。1985年、52歳のときに川崎・堀之内のソープランドで知り合った韓国籍のソープ嬢と再婚し、その体験を小説化(「片翼」シリーズ)して「現代の神話」とも評された[11]。その後の浪費、不倫、離婚に至る経緯も『暗雲 さようならそしてこんにちは「片翼だけの天使」』に克明に描かれた。
1989 - 93年、日本推理作家協会の理事長を務めた。また同協会が主催する江戸川乱歩賞の選考委員も務め(1982 - 83年度、1990 - 94年度)、選評では決まって「古い枠にとらわれることなく、自分が書きたいと思ったことを推理小説に仕立て上げてほしい」などと述べている。そのためか本格推理小説が応募されてくるとその作品についての評は辛くなっている。
1993年、早川書房時代を描いた『浪漫疾風録』、翌年にも続編となる『星になれるか 浪漫疾風録第2部』を発表。いずれも綺羅星のごとき才能が実名で登場する実名小説である。
1996年、大藪春彦が亡くなると「読売新聞」に追悼文を寄稿した[12]。「銃について不確かな点があると、大藪さんに電話して、教えを乞うたことがあるが、そういうとき、実に親切にわかり易く説明してくれてありがたかった」と記すなど、従来、一般には知られていなかった大藪春彦との交流が初めて明らかとなった[注 1]。
2003年3月2日、肺炎のため、逝去。70歳没。葬儀委員長は作家の大沢在昌が務めた[注 2]。