日本から北朝鮮に拉致された人のうち、5人が帰国してから2022年で20年となった。この年、被害者の1...
■2人で買い物中、突然船に乗せられ
2人で家路に戻る途中、見知らぬ男性3人に後ろをつけられ、自宅まであと100メートルほどの場所で襲われた。いきなり頭から南京袋をかぶせられ、手足は拘束。近くの川につけていた小舟に乗せられた後、沖に待機していた別の大きな船に移された。
袋を外されたのは船の上。曽我さんは当時の状況をこう話す。「窓もない暗い船室に押し込められていたので、外の様子も知ることができませんでした。身に起きた出来事にただ恐怖するだけで、声を殺して泣くしかありませんでした」
船室に母の姿はなかった。泣き疲れて目を覚ますと、13日の夕方を回っていた。船の甲板から外の景色を見ると、見覚えのない港に着いていた。日本語を話す女性に場所を問うと、「ここは北朝鮮という国だ」と答えた。
別の男性に母の安否を尋ねると、こう言われた。「母さんは日本で元気に暮らしているから、心配しなくていい」(※ミヨシさんは日本政府が認定する拉致被害者だが、北朝鮮側は現在まで、「未入国だ」と主張している)
■横田めぐみさんとの出会いと別れ
二人が一緒に暮らせたのはわずかな期間だった。招待所を出た後、めぐみさんとは、外貨ショップで偶然会ったことがある。元気な姿だったと記憶に残っているが、その後、再会はできていない。
■結婚するも、北朝鮮での過酷な生活は続く
結婚後は「特別地区」と呼ばれる場所で生活したが、監視下ではなかなか単独行動が取れない。指導員に連れられ外貨ショップに買い物に行くことはあったものの、どうしても足りないものは闇市にこっそり買いに行くしかなかった。指導員に気付かれれば外出が厳しくなる。毎回、神経を張り詰めていたため疲れた。
つらかったのは冬の生活だ。北朝鮮は極寒。大雪になったり氷点下になったりするのは故郷の佐渡でもあったが、生活の大変さは全く違う。
■支えてくれた家族の存在と、現地の市民との交流
「自由こそなかったのですが、毎日がつらく苦しいものだった訳ではありませんでした。現地で暮らしている人たちはごく普通の人たちなのです。とは言っても、特別地区に住んでいたので、現地の一般的な状態を一部しか知りません。私たちと関わりを持っていた指導員はとてもいい人たちでした。確かに生活レベルは日本では考えられないくらい低いもので、物資なども常に不足している状態です。一部の特権階級の人々の犠牲になっているのは事実ですが、そんな中でも北朝鮮の人々は生き延びているのです」