ADHDといえば、男性が多く、じっとしているのが苦手などの多動のイメージがあるかもしれません。しかし、子どものころには特性が目立たず、大人になってADHDだと診断される女性たちが多くいるといいます。そこには…
ーーどうしてADHDに気づかなかったのでしょうか?
「私はADHDの『不注意優勢型』で、子どものころはあまり目立たないんです。私は、授業中はきちんと座っていられました。実は、違うこと考えていたり、落書きとかしているんですけど。親がフォローしてくれていたから、忘れ物もあまり目立ちませんでした」
進学校に通っていた雨野さんは、大学に進み、教員免許を取得します。そして、卒業して数年後には小学校の先生として働き始めました。そこで大きな壁にぶち当たりました。
「授業ではそんなに困ることはなかったんですが、事務作業などの仕事が壊滅的にだめでした。でも自分では認めたくなくて、隠したり、ごまかしたりしていました。素直に謝れなかったり、誰かに手伝ってほしいとは言えませんでした」
「職員室の先生には良い格好したかった。「ダメ」って言われたら人生終わりだと思っていました。でも、先生たちには『この人は言ってもだめだから』と、私がミスしたり、変な動きをしたときには直で管理職に報告をされたりするようになりました。
それで、人生ではじめてなんですけど、動悸がして、話そうとするとのどが詰まるみたいな感じになって。学校からの帰り道で毎日「なんか死にたい」みたいに思って泣いていました…」
ーー自分のありのままを伝えることで、仕事に変化はありましたか?
「物を忘れなくなるかというと、全くそんなことはなくて。大事なものが入っているのに、体育館に置きっぱなし、などなどあったんですけど、周囲に自分の特性を伝えてあるから、みんなが職員室に郵便屋さんみたいに届けてくれるようになりました。
あと、4年生の図工を3クラス持ったのですが、図工ってADHDの人は怒られがちなんです。材料がないとできない授業が結構あるのですが、忘れてくる子はだいたい同じなんです。だから決まりを作ったんです。私も忘れちゃうから、忘れるのは仕方ないから、授業が始まる前の休み時間に『先生、忘れました』と言ってくれたら、貸すからねって。
1年の授業の最後のときにみんながお手紙をくれたんですが、ほとんどの児童が『車を作った授業が楽しかった』とか『この絵を描いたのが楽しかった』と書いてある手紙でした。でも、忘れ物が多かった子は『先生は忘れものをしても大丈夫だよって言ってくれました。図工が好きになりました』と書いてありました。
1年の最後のお別れの手紙で忘れ物のこと書くなんて、どれだけこれまで忘れ物のことで責められたり、自分がだめって思っていたんだろう…って。このことを思い出すといつも泣いてしまいます。
自分が同じようなところがあるとお伝えすると、救いになると思ってくれる人がいるのかなと思いました」