浅田舞オフィシャルウェブサイトより
「こうして私たち二人のことについて普通にお話ができるけれど、3年前なら無理だったと思います。暗闘から抜け出せたのは、実はつい最近なんです」
これは現在タレントとして活躍する浅田舞が妹・真央との関係について語ったものだ。舞は「婦人公論」(中央公論新社)7月26日号での「円満きょうだい、犬猿きょうだい」特集のインタビューに応じ、一時確執が伝えられた真央との不仲、そして現在はそのわだかまりも溶けたことを告白している。
もっとも、舞が真央について語ったのは今回が初めてではない。昨年3月には水着姿を披露した写真集『舞』(集英社)出版に際して、バラエティ番組に出演。真央と「めちゃくちゃ仲が悪かったこと」、そのため舞自身が荒れた生活を送っていたことなどを赤裸々に語り大きな注目を浴びた。
しかし、今回のインタビューではさらに一歩踏み込んで、その妹・真央への負の感情が生まれた背景を語っている。それは、両親、特に母親との関係だ。
舞・真央姉妹の母親である匡子さんは、姉妹が幼い頃から2人のフィギュア人生を全面的に支え、人生の全てをかけてきたステージママとして知られる。真央が世界的アスリートとして活躍できたのも、匡子さんのマネジメントとプロデュースあってこそだった。
しかし、舞にとっては、その母親こそが自分を苦しめ、抑圧をもたらす存在だった。舞が真央と関係が悪くなったのも、母親のせいだったと彼女は語っている。
「真央に対しては、才能へのジェラシーはありましたが、それだけだったと思います。
でも、母はたまに顔を合わせると、そのたびに『真央が一生懸命練習しているのに、あんた、何なの?』とか、『お願いだから真央に迷惑をかけないで』と言われたのです」
もともと匡子さんは、舞と真央双方に期待をかけ、そして手をかけてきた。いや、幼い頃は舞の方により期待をかけていたといっても過言ではない。それは舞自身、こんな言葉で表現しているほどだ。
「器用で飲み込みも早く、放っておいても大丈夫な妹に対して、不器用な姉のことが心配でたまらなかった母は、いつだって『お姉ちゃん、お姉ちゃん』と、私のほうばかり見ていました」
しかしそれは、2004年、真央が14歳で全日本ジュニア選手権に優勝したあたりから徐々に変化していく。脚光を浴び、国民的アスリートとしてその地位を着々と築いていく真央。すると、母の視線は姉以上の活躍を見せる妹に向けられていく。
ひねくれてネガティブになっていく舞。しかし、舞にはスケートをやめる自由はなかった。舞が「練習したくない」と弱音を吐くと手が飛んでくるほどの超スパルタだったのだ。
「(母に)一度だけ『辞めたい』と訴えたことがあります。そのときもやはり、パチーン。ああ、私には、やめる自由はないんだ、と思い知らされて。優しかった父もだんだん厳しくなってきて、いつしか両親に対して、自分は何ひとつ言えない状態になっていました」
どんどんネガティブになり、生活も荒れ始めた舞。すると、母親はやがて舞のことを厄介者扱いするようになり、「真央に迷惑をかけないで」とまで言うようになったという。そして、ついには母親と父親からこんな仕打ちを受けたことも告白している。
「あるとき『舞を放っておいたら何をするか分からないから』と、部屋に閉じ込められたことがあります。父に一日中監視され、苦痛のあまりお小遣いだけを持って夜中に2階の窓から飛び降り、家出しました。父が追いかけてくるのではと、駅まで猛ダッシュしたことを覚えています。(略)それ以降、両親はあきれ果てたのか、私のことは相手にしてくれなくなりました。ああ、見捨てられたんだな、と思った瞬間です」
家族の期待を一身に浴びる妹と、挫折し家族から疎外され、追い詰められていく姉。そして舞は、その憎しみを次第に妹に向けていったのだという。
実は、こうしたケースは決して珍しいものではない。自らの願望や価値観を過度に押しつけ、子どもの人生を支配しようとする母親の存在は、「母親がしんどい」というキーワードでしばしば語られるが、それに加えて、兄弟や姉妹のうち、その期待に応えた方の子ばかりをかわいがり、期待を裏切ったもう一方の子については怒るかあるいは無視するような対応を繰り返す母親も少なくない。
しかも母親も子どももそのことに対して無自覚な場合が多く、原因のわからないまま、兄弟、姉妹の不仲、親子間の確執が重大なものになってしまう。年齢を重ねて初めて母親からの呪縛を自覚し、その関係に苦しんでいる人も多い。
やはり母親との確執を告白した小島慶子や杉本彩も、母親との関係が姉妹の不仲とリンクしていることを示唆していた。
もっとも、浅田舞・真央の場合は、匡子さんの愛情が姉妹によって本当に違っていたというわけではないだろう。それを象徴するのが、匡子さんが晩年、肝臓を患い、移植手術が必要となった際のエピソードだ。このとき、家族全員が適合手術を受け、舞が最もドナーに適合したことがわかったが、直前に匡子さんが「やはり、大事な娘の身体にメスを入れられません」と強く拒否し、危険度が上がることを承知のうえで、夫からの肝臓移植を受けたと報道された。
この話からは、現役のスケーターである真央の身体も一線を退いている舞の身体も、匡子さんが同じように大事に思っていたことがわかる。
しかし、少なくとも当時の舞はそういう風には受け取れなかった。母親が練習に明け暮れたあげく、挫折してしまった自分を見捨てて“偉大な妹”だけを優先したというように考えていたようだ。
実際、舞と真央の関係が修復に向けて動き始めたのは、11年に匡子さんが逝去したことがきっかけだったという。
「母の死がきっかけで、ばらばらになっていた家族が集まって話し合う機会が少しづつ増えました」
そして舞は亡くなった匡子さんの代わりにソチ合宿に参加する真央に付き添い、2人きりで3週間を過ごした。
「いろんなことを話しました。(略)それを機に、『浅田真央のお姉ちゃん』と呼ばれ、真央と比べられるのはあれほど嫌だったのに、不思議と、どうでもよく思えてきたのです。そして気づいたら、私たちの距離はぐっと縮まっていました」
母に対する複雑な想いを、その死から5年たってようやく語ることができた舞。その呪縛を完全に払拭したことで、新しい姉妹の物語がこれから始まるのかもしれない。