匿名さん
●遊女たちの生活は?『鬼滅の刃 遊郭編』をもっと楽しむ! 「遊郭」5つの基礎知識 | マグミクス
吉原遊郭は、東京では、唯一の公的に許された遊郭で、江戸時代から1952年(昭和27年)まで続きました。当初は現在の日本橋人形町周辺に作られましたが、明暦の大火による類焼をきっかけに1657年、浅草寺の奥にあたる山谷地区に移転。吉原は明治時代までに24回も全焼しています。
1750年以降は、およそ2000~3000人の遊女がいて、春の夜桜や秋の灯篭などの行事は大いに賑わったようです。おはぐろ溝(どぶ)によって一般社会と隔離されていた吉原では、商人や職人、医師までが吉原のなかにいて生活がまかなわれていました。
●あいまいな「花魁」のランク
「花魁」というのは、吉原の高級遊女の別称です。ただ、「花魁」というのは尊称的美称であったため、どの階級の遊女のことを言うのかは、はっきりしません。自分専用の座敷を持つ「座敷持ち」以上か、自分専用の部屋を持つ「部屋持ち」以上を指すとされていたのも、時代とともにうやむやになり、大正時代には遊女全般の呼称になっていたようです。
●「女衒」は天元には当たり役!?
諸国を巡り歩いて貧農の娘などを探し出し、親や本人を説得して勧誘し、遊女屋への身売りの仲介をするのが女衒(ぜげん)と呼ばれる男性たちです。俗には「人買い」とも言われています。
女衒は性格が優しく、見た目もスラッと上品な「優男」が適任だったと言われます。
●店と遊女、客の三者を取り仕切るOG「遣手」
●遊女屋の男性従業員「妓夫」